1949年(昭和24年)4月開設を目標に,明治大学では戦前からの法,商,政の3学部に,文学部,工学部,農学部の3学部を加え,一大総合大学に発展させるという大明治建設の構想があった。工学系では,1944年(昭和19年)に発足した東京明治工業専門学校(機械科,電気科,造船科を持つ)を新制大学に昇格改組することが計られた。
このうち,機械科,電気科は順調に教員組織が整えられたが,造船科の教員の充足が敗戦とともに非常に困難になり,また教育研究設備(例えば試験水槽など)にも巨額な費用が見込まれ,これでは工学部開設は明大に負担がかかりすぎるという判断の下に造船学科は断念され,当時,教員充足に見込みがあり,かつ特殊な実験装置は不要であるという建築学科がとりあげられたという。工学部開設に当たっての事情は初代工学部長である神保成吉先生により神保記に詳しい。
建築学科開設の立役者は堀口捨巳,渡辺要,河野輝夫の3先生である。どのようないきさつで,この3先生が設立に携わられたか詳らかではない。
堀口捨巳は当時54歳,1920年(大正9年),東京帝国大学建築学科卒業の年次に分離派建築会宣言に加わった一人の建築設計家である。1946年(昭和21年)より東大建築学科の非常勤講師,また,文化財保護委員会で建築系及び庭園系の委員を兼ねた。1949年(昭和24年)に著書「利休の茶室」で日本建築学会論文賞,1951年(昭和26年)には「八勝館みゆきの間」の設計で日本建築学会作品集を受賞するなど研究,設計活動が最も盛んなときに建築学科開設に当たった。
渡辺要は当時47歳,1942年(昭和17年)より東大第二工学部建築学科教授,1950年(昭和25年)より,東大生研の教授であり,環境工学(建築計画原論)の泰斗であった。
河野輝夫は,当時44歳,日大建築学科教授を履歴しており,河野建設株式会社社長の職にあり,戦前の建築学会における柔剛構造論の一方(剛構造派)の論者でもある建築構造学の権威者であった。
この3名の方々の尽力で建築学科が始まった。初年度(1949年:昭和24年)の専任教員は堀口捨巳,河野輝夫,(渡辺要は当初兼任教授,東大定年退官後専任教授に就任),助教授では神代雄一郎,徳永勇雄の僅か4名で,他は他大学(殆ど東大建築学科)教員,建設関係の官公庁,研究所あるいは企業の技官,技師による兼任教授,兼任講師により教育が始められた。
開設初年度の教員,学科目および担当者については,(2)学部カリキュラムの変遷および教員氏名の昭和24年度に収録してあるので参照されたい。
大先生の御名前が目にとまると同時に,東大型のオーソドックスなカリキュラムに加え,当時新鋭の徳永先生,神代先生のお二方による建築経済学,近代建築論の課目がおかれたのも特徴である。
一方,意匠や計画が専門である神代,徳永先生が,人手不足で測量学や応用力学演習なども担当され涙ぐましい。開設後数年の間に若手教員として杉山秀雄、篠原隆正、浦良一,小倉弘一郎が専任教員として加わり,1956年(昭和31年)には狩野春一が東工大退官後,専任教授に就任した。
カリキュラムは開設当初には年々改定され,追補され1954年(昭和29年)度には一応,形が整った。これについては,学部カリキュラムの変遷及び教員氏名の昭和29年度を参照されたい。
【文中敬称略】
開設当初の3年間は、工学部全体としての専用の教室,研究・実験室はなく,駿河台校舎3号館、和泉校舎の一部のほか,JR山手線新大久保駅近くの保善高校校舎の一部を間借りで済ます。4年目に1952年(昭和27年4月)に神田小川町交差点に近い聖橋校舎を明大が取得し,ここに工学部の大部分が移り,建築学科教室は全員がここに入った。
聖橋校舎は山下谷次氏設立の元東京高等工業学校校舎のRC4階建ての古い建物で,1923年(大正13年)関東震災時に火災を免れ,周辺の住民と家財の避難場所になったという感謝の碑が校舎跡に現存している。工学部が生田に移転後は,中央大学付属高校が一時使用し,その後取り壊され,現在は総評会館(9階建て)が建っている。
この校舎は口型の平面で、延べ770坪,建物中央に吹抜けがあり,内廊下と勾配の急なむきだしの階段が吹抜けに面しているという火災時の避難には大変危険な建造物であった。しかし,良い面もあり,他学科,他研究室の教員,学生が吹抜け越しに朝夕の挨拶を気軽に交わすという雰囲気も作り出された。
Communicationには好適の間取りともいえた。屋上からはニコライ堂が望め,定時にはニコライの鐘が漏れ聞こえた。1954年(昭和29年)度に建築科教室の設計(担当:河野先生)で,鉄骨造で屋上増築を行い,ここには建築科の製図室と研究室が当てられた。聖橋公舎敷地には引続きボイラー室が改築され,その2階には電気化の強電気実験室,1階の一隅に建築材料実験室が,また表通りからの入口の突き当りに建築構造・材料実験用の100t万能試験機の上屋が作られた。
工学部は開設2年目より2部(夜間部)学生も受入れているが,聖橋校舎は教員にも学生にもそのロケーションがたいへん良く,昼夜休みなく教育,研究に使われた。それは1965年(昭和40年)の生田校舎への移転まで続く。
主題から少し外れるが,聖橋校舎の急な階段のことに触れると,この階段をある時は松葉杖をついて,あるときは友人に背負われて,3回,4階の建築科の教室,製図室に通っていた一人の学生を思い出す。彼の名は正木愛一君。小生(小倉)のゼミ生,1963年(昭和38年)卒である。彼は生まれながらの重度の身体障害者で片足は殆ど効かない。家業が鉄骨の加工業者で大学工学部の建築学科を志望した。たいていの大学は工学部では身体障害者を受付けないなか,明治大学だけはその制約はなかった。彼は中学,高校で好きな数学を懸命に勉強し,そのおかげか入試に合格し入学後も,必修の製図,卒計も単位修得し,見事4年間で卒業した。
ゼミでも良く仕事をやり,ゼミ旅行にも良く参加した。卒業後の懇親会にも毎回殆ど欠かさず出席している。彼の障害にめげない明朗な性格もあって,うまく人生が運んだのかもしれないが,少なくとも明大の入学条件に身体障害者にかかわる制約が一切無かったことを,卒業後の彼からすごく高く評価されている。
明大の大学人として心に留めて置きたいことである。
【文中敬称略】
設立当初の建築科教員は,殆ど東大出身であったためか,カリキュラムにも自ずから東大建築科のそれの傾向が強く出た。特色が無いといわれる明大建築科のカリキュラムで強いて記せば設計教育に重点が置かれたことであろう。
1年の図学,2年~4年までの設計製図,4年の卒業設計がすべて必修という線はかなり後まで実行された。卒計の採点に当たっての堀口捨巳先生の態度は大変厳しく,「学生は卒業してから建築屋としてせめてお茶は濁せる程度の図面が画けなければ駄目」という口癖は,先生が在職中の全教員の耳に残っている。
建物の屋階平面図でパラペットの二重線をインクで塗りつぶし,コンクリート壁の表現にしてしまった卒計は不可,卒業は一年見送りとなった学生は何人かいた。
設計製図(科目名は,製図第1~第4から建築製図Ⅰ,Ⅱ,・・~建築設計Ⅰ,Ⅱ,・・と変遷する)には,建築計画,意匠,建築史関係の専任教員のほか,多数の兼任講師の協力を頂いた。これについては,(4)教育に係わった専任教員の氏名・担当科目を参照されたい。
講師には、著名な設計事務所の方々が多く,1955年(昭和30年)代の初期より長い間お勤めいただいた高橋?一氏,西野範夫氏,あるいはまた,明大1回生の成澤通良氏,入部敏幸氏をはじめとして数多くの本学建築学科のOBの方々のご協力を頂いており,厚く感謝している。
堀口先生御退職後,先生からのご寄付に基づき堀口賞が設定され,デザインの優れた卒計に与えられ,現在まで35人の受賞者を数え学生の励みになっている。
生田校舎への移転を契機に1964年(昭和39年)度にカリキュラムの大幅な改定があり,卒業までの必修単位数は140単位となった。これについては,(2)学部カリキュラムの変遷および教員氏名の昭和39年度を参照されたい。
しかし,建築専門科目のカリキュラムの改定は僅かであり,教育設計への重点は変わらない。卒計10単位は必修,卒論4単位は選択で卒論はなおざりにされがちだった。
とくに構造,材料,設備系のゼミナールでは卒論に重点を置きたいとする意向が強く,1977年(昭和52年)度からは4年次必修は卒業設計または卒業論文(6単位)と改定された。これを機会に,構造,材料,設備系研究室では卒論指導に力が入り,優れた論文も現れ,研究室の研究成果向上にも役立った。
狩野春一先生没後,狩野家よりのご寄付に基づく狩野賞が設定され,これは構造・材料,環境・設備系の優秀な論文に毎年2点程度贈られている。
1977年(昭和52年)度以降,卒論を必修とする学生が増え続け,現在は卒計必修者,卒論必修者数はほぼ半々になっている。
1989年(平成元年)に既存の6学科に理学系3学科(情報,数学,物理)を加え,理工学部に改組され,カリキュラムは理工系基礎科目の学習に重点を置くように大幅に改定された。学部カリキュラムの変遷および教員氏名の当該年度を参照されたい。
ここでも建築の専門教育科目(2類科目)にはほとんど変更はない。
・ 昭和24~31年(1949~1956) >>PDFファイル1 (昭和27年のみ不明)
・ 昭和32~39年(1957~1964) >>PDFファイル2
【文中敬称略】
1964~1966年(昭和39年~41年)に現在の生田校舎への移転が始まる。生田移転に当たっては大多数の建築科教員は反対の姿勢を示した。かなりの数の兼任教員を,駿河台校舎や聖橋校舎には交通便利な本郷の東大の先生に依存しており,生田移転により依頼しにくくなる。また学生が東京の市街地に建つ良い建築,新しい建築に接する機会が少なくなる,さらに専任教員の学外での調査,研究活動が不便になることなどが理由である。一方,移転により,それまで極端に狭かった製図室,実験室,研究室事情が少しは良くなるという長所もあり,特に実験研究設備のスペースの欲しかった構造,材料,設備系の教員の気持ちは複雑であった。とにかく当時の工学部長であった石田四郎教授の強靭な推進力のもとに生田に移転した。
生田移転とともに2部学生の募集は停止され(4年後には廃止),それまでの1部,2部を合わせた工学部全体の実定員数の1000名を1部で募集することとし,電機,機械,建築,工業化学で実定員をそれぞれ,300,360,200,140名と分け,生田校舎での教育が始まった。建築学科での実定員200名は,それまでの1部,2部合計の240名より少なく,電気科、機械化より割が良かったが、それでも他の私立大学の建築学科に比べるとStudent/Professor比はかなり高かった。生田移転でひとまず専任教員(ただし,専任講師以上)は個人研究室が持てるようになった。自然環境は,神田,和泉に比較すれば格段に良く,文系の他学部教員から羨ましがられた。
生田キャンパスの工学部校舎の設計・監理は建築学教室が担当し,建築設計は堀口捨巳先生,設計協力は早川正夫設計事務所と第一工房,構造設計は構造研究室が引き受けて小倉,杉山,狩野,亀田がそれぞれ2号館,3号館,1号館,4号館の構造計算を担当し,設備設計は設備研究室が受けて,篠原,佐野が担当した。
生田キャンパスの工学部校舎の設計については,明治大学理工学部50年史「学部の歩み・生田校舎建設」に詳しい。
【文中敬称略】
建築学科に大学院専攻を設けることは早くから要望されたが,電気科,機械科に比べて大学院担当資格者の不足,施設,図書の不十分のため,前記の2学科に遅れ,狩野春一先生の教授就任に合わせ,昭和31年度より専修科目3科目(建築史および意匠特論,建築構造特論,建築材料特論)で修士課程を発足させた。博士課程は5年後の昭和36年の発足になる。
第1回の修士入学者は,向井毅,田村孝之,関建世氏の3名,博士入学者は関建世氏の1名,以後今日までの修士修了者823名,博士修了者29名を数え,また工学博士の学位を本学に申請し修得した者は,36名(内10名は課程博士,26名は論文博士)になる。
大学院で講義を担当し,研究指導ができる資格は,学内でも規定が厳しく,当初は学部教授に昇格後2年に,その資格を得るというもので,日進月歩の学問を教える工学系では大変不評であった。しかし,実質的には若年の助教授,専任講師に指導を委ねることが多かった。
1976年(昭和51年)度に明大大学院全体として,修士,博士課程が博士前期課程,博士後期課程の形に改められ,カリキュラムの改訂もあり,助教授も講義,研究指導ができるようになった。
1993年(平成5年度)に工学研究科から理工学研究科に改組され,特に講義科目の内容にバラエティーが添えられた。科目名および担当者名は,大学院カリキュラムの変遷および教員氏名を参照されたい。
【文中敬称略】
明大工学部では教員組織による講座制はとらず、各学科のStudent/Professor比を公平にほぼ等しく保ちながら専任講師以上の人数について定員制をとってきた。専任者となった新教員は,初めの1,2年は専任者の講義や演習の補助を務めることもあるが,すぐに独立してゼミナール学生を採り研究室を開設し,教育研究に励むという形をとってきた。その結果,講師以上の専任教員の数だけ研究室ができる独立研究室制の形になった。各研究室のこれまでの経緯については,各研究室の沿革を参照されたい。
・ 研究室紹介2011年現在の内容です >>該当ページへ
【文中敬称略】